🐱 不吉な夢
ここは広島県尾道市、大林宣彦監督の三部作で有名になった場所である。 そこに中学三年生になったばかりの沢木伸一という小がらな少年がいた。 高校教師の一人息子として生まれた彼は、親の遺伝子をつぎそこなったのだろう、 学業はあまり得意とはいえなかった。 彼はいま、狭いながらに与えられた自分の部屋のベッドに寝ていて、 目を開き、窓にかかったほのかに明るいカーテンを見つめていた。 部屋にいるのは彼一人、枕もとの目覚まし時計は午前二時を指していた。
「夢だったのか?」
それでなくとも怖(こわ)がりな彼だが、今やその身体を小刻みに震わせている。 伸一は小学校の間は母親といっしょの部屋に寝ていた。 中学校に入ってからもしばらくはそうしていたが、 たびたび世間体が悪いといわれ、最近ようやく一人部屋に寝るのを承知したのである。 しかし、今の彼の顔色にはそれを後悔していることがありありと表れていた。
彼には小学生時代から知っている上月(こうづき)はるかという幼なじみがいた。 母親どうしが知り合いということもあって、四年生くらいまでは遊ぶことも多かった。 五、六年になるといつのまにか疎遠になったが、 中学三年でクラスだけでなく部活も同じになったため、再びよく話すようになった。 明るく、すんだ目をもつ、ショートボブの髪型の少女だった。
先刻の夢はこんなふうだった。
放課後、割り当てられた部屋の掃除をすませ、 彼はいつものように、はるかとともに部室へ向かっていた。 部室になっていたのは三階建て鉄筋校舎最上階にある理科準備室だ。
「先輩たち、もう来とるかな?」
「まだなんじゃないの。 伸ちゃんが鍵持っとるんでしょ?」
「それはそうじゃけど……」
階段を上がるにつれ、目にする生徒の数は減ってきた。 理科準備室は三階の一番奥にあり、 着いたときは回りに中学生は一人も見当たらなかった。
部屋には鍵がかかっていた。 伸一は職員室から持ってきた長い鍵をドアに差しこんだ。 ロックがはずれるカチャリという音がした。 鉄のスライドドアを思い切りよく引くと中が見える。
いつものことだが、暗い部屋は伸一をひるませた。 鼻先を薬品臭がかすめ、部屋の隅に赤い血管を浮き立たせた人体模型があるのもいやだ。 岩石の標本はいいとして、白くなった小動物のホルマリンづけには目をそむけたくなる。 彼ほど恐がりでなくても、ここへ来る生徒が大なり小なり背筋を寒くするのは確かだ。
伸一は急いで電灯をつけ、明るい光が不安を吹き飛ばしてくれるよう祈った。 それから勢いよく息をはきだし、何でもないというふうにこう言った。
「どうする? 皆が来るまで、ここで待つ?」
彼は振り向いて、はるかに話しかけた。 いや、話しかけたつもりだった。 ところが、後ろから入ってきたはずのはるかはどこにもいない。
「……」
一体はるかはどこへ行ったのだ? 彼が声を出して探そうとした瞬間だった。 背後から「ミャーッ!」という大きな鳴き声がした。
部屋の中を振り向くと、そこには、いつの間に入ったのか一匹の猫がいた。
「ヒェーッ!」
思わず大声を上げた。 伸一は猫ぎらいだったのである。
しかし、この場合、それだけではなかった。 猫はふつうの猫ではなかったのだ。 大きさはライオン並で、口の両端は裂け、耳のつけ根に達している。 それが今や、恐ろしく赤い口の中をさらけ出し、 伸一に飛びかかる態勢をととのえているところだった。
「化(ば)け猫だ! 助けてーっ!」
そう叫んだとたんに目が覚めた。 異様なほど本物らしい夢だった。 目が覚めた後でも、猫の全身に走る茶色のしま模様や、 赤く血走った恐ろしい目がまぶたに浮かぶ。 法外に大きな牙、それに体全体から発散する強烈な腐敗(ふはい)臭までも……。
彼が悪夢を振り払い、再び安眠するまでには相当な時間が必要だった。 本当に眠ったときにはすでに東の空がほんのりと白くなりかけていた。

実は、伸一がこうした悪夢を見るのは初めてではなかった。 何年か前、海沿いの商店街で大きな火事があって十数人の死傷者が出た日の前夜、 彼は、自分が台所で大やけどをする夢を見た。 翌日、夢は正夢となった。 火事は夕方、小さな地震がきっかけである食堂のプロパンガスが暴発し、 折りからの強風に乗って商店や家屋十数軒を巻きこんだ大火事になったのである。 幸い山側に住んでいる伸一の家には被害はなかったが、 山陽本線の向こうの夜空に赤々と上がった火の手は彼の家からもはっきり見えた。
それだけではない。 半年後、家族が旅行へ行く前日のことだ。 伸一は例によって悪夢を見た。 起きてからも、原因不明の腹痛に見舞われたため、 楽しみにしていた家族旅行は取りやめになってしまった。
翌日、沈んだ気分でニュースを見ていた彼と母親は思わず大声を上げた。 初日に泊まるはずだった旅館で食中毒事件が起こり、 十数人が病院へかつぎこまれる様子が報道されていたのだ。 本当に出かけていれば、楽しいどころか恐ろしい旅行になったにちがいない。 その頃には伸一の腹痛は何事もなかったようにケロリと治っていた。
いつからか、詳しいことは知らないが、伸一にはこんなことがよくあった。 彼は未来を夢見ることができる少年なのだ。 未来を自由に知ることができるわけではないが、 夢の残す印象の強さから、彼は夢がどのくらい正確に未来を表したものか、 大体のところ見当がつくまでになっていた。
そういう過去の経験からいって、 彼は今回の夢もきっと現実に起きる前ぶれであることは間違いないと思えた。
