🐱 上月はるか
翌朝の八時前、伸一が尾道から岡山行きの山陽本線に乗りこむと、 大あわてで駆けこんでくる女生徒がいた。 学級委員になったばかりの上月はるかである。
はるかは目をくりくりと動かしながらよくしゃべる活発な少女だった。 当人は自分が引っ込み思案だと言うのだが、 伸一が見る限り、目立ちたがりというとまではいかないにしても、 とても引っ込み思案とは見えなかった。
彼女は駅まで走ってきたらしく、顔を上気(じょうき)させ、息を切らせている。 電車に乗りこむと、伸一の姿を認め、つり革をにぎって彼の隣に立った。
「珍しいな、はるかちゃんがこんなギリギリの電車に乗るなんて」
伸一はそう話しかけた。 大多数の楽々学園生は始業時間にゆうゆう間に合う一本前の電車に乗るのだ。 この電車に乗っている中高生は他校の詰襟、セーラー服を着たものがほとんどだった。 楽々生の、男女とも紺のブレザーに赤のタイというハイカラな制服は二人以外どこにも見当らなかった。
「駅の近くまできて、今日は国語の宿題があるって思い出して、取りに戻ったんよ」
「はるかちゃんは国語となると目の色が変わるね。 そんなの、学校でササッと書きゃええのに。 ところで、国語の宿題って何?」
「あきれた。 読書で皆におすすめの本を一冊選んで、ひと言紹介文を書いて来いって言われたでしょ。 忘れると相当な減点が待ってるから覚悟しとけって言われたわ」
「そうか、それならぼくも学校で書いといたほうがいいな」
「伸ちゃん、何書く気?」
「ん、トールキンの『指輪物語』か『ホビットの冒険』かな」
「それはだめよ」
はるかは口もとを大きくすぼめた。 強く否定された形だが、伸一はその横顔がかわいいと思った。
「なんで?」
「日本の作品に限るって言うてたわ」
「そうか。 それなら宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でいこか」
「小学校の教科書に出るようなんじゃなく、中学生向きじゃなきゃだめよ」
「めんどうじゃな。 それなら筒井康隆の『時をかける少女』ならええじゃろ。 何しろ主人公が中学生じゃけえ」
「それなら問題なさげね」
「それより、はるかちゃんは何にしたん?」
「夏目漱石の『吾輩は猫である』よ」
「えっ、あんなに読みにくい本、読んだの?」

伸一ははるかの口から猫という言葉が出たのにドキッとしたが、それはだまっていた。
「読んだわよ。 『三四郎』も『こころ』も『草枕』も読んどるわ。 もう中学三年じゃもん、いつまでも『ずっこけ三人組』ばかり読んどられん」
「す、すごい。 ぼくも少しは本読むほうと思ってたけど……完全に負けた」
「ふふふ。 でも、一番好きなのはやっぱりラーゲルレーヴさんの『ニルスの不思議な旅』だったりするのよね」
彼は化け猫の悪夢のことを話そうかと思ったが、彼女を傷つけるのが怖くて口にできなかった。
「それにしても、昨日の島村先生の話にゃ驚いたな」
「アカシックゼミとかエーテルとかいう話のこと?」
「ああ。 狂ってるよ。 ぼく、あの先生どうしても好きになれん」
「どうして?」
「口で言ってることと、心で思うとることが違ってるような気がしてしかたないんじゃ」
「そうかしら?」
「きっと、そうじゃ。 はるかちゃん、アカシックゼミへは行かんほうがええよ」
「行かないわ。 わたし、もう塾や習い事の予定がいっぱいなんよ」
「まじで?」
「うそついてどうするの。 それより、伸ちゃん、どうして最近私と同じ地学部に入ったん?」
「もともとアメジストとか、化石とか、そういう石が好きだったんじゃ。 べつにはるかちゃんが好きってわけじゃない。 それより、きみこそどうして地学部みたいな地味なとこへ入っとるん?」
はるかは少し顔を赤らめた。
「簡単よ。 終戦前後にこのへん南海地震がたて続けに起こったじゃない。 今度起きたらひどいことになるってきいたから、それに備えておきたいんよ」
「意外と現実的じゃね」
「現実的って、どういうこと?」
「うん、そろばん高いっていうか、夢がないっていうか」
「夢がなくって、悪かったわね!」
「いや、そういう意味じゃなくって、ぼくと違って、地に足がついているっていうか……」
「それならそうと、最初から言ってよ」
「ははは。 ぼく、しゃべるの、あまり得意じゃないんだ」
その時、電車は大門駅に停車した。 はるかは大あわてでとび降り、改札口へ走り出した。
「待ってーや」
伸一は彼女の背中に向かって呼びかけた。
「何言うとるん! 走らないと遅刻よ」
学校まではゆるい上り坂が二、三百メートル続いている。 はるかは振り返りもせず、かばんをかかえて全速力で駆け出している。 伸一はやれやれと、最低限遅刻を免れるいつものペースで走り出した。
